深田 上 免田 岡原 須恵

ヨケマン談義9.人吉球磨地方の伝承文化

9-5.ウンスンかるた と 球磨の六調子

 「ウンスンかるた」は、人吉球磨地方だけに伝わる文化遺産である。
この遊びは、16世紀にポルトガルから持ち込まれ、江戸時代には全国的に流行したそうであるが、1790年頃、老中の松平定信が行った寛政の改革で禁止され、すたれてしまった。しかし、山奥の人吉地方には禁止令があやふやな形で届いたのか、届いても藩主が見逃したのか、いずれにしても人吉球磨地方にだけは残ったということは、やはり、この地方は昔から権力者のいる地からは遠隔の隠れ里であった証でもる。

 そもそも、「かるた」とはどんなものなのか。古典的な日本のかるた、たとえば「いろはかるた」は47枚(京を加えると48枚)で読み札(文字札)と取り札‘絵札)がある。しかし、このウンスンかるたは絵札と数札だけである。
九州国立博物館には、図1に示すような伝来当時の「ウンスンかるた」が展示されている。総枚数は75枚で、トランプの52枚(ジョーカーを含め53枚)より多い。
トランプの絵柄(スート)はスペード♠、ハート、クラブ♣、ダイヤの4種類であり、各スートには13の番号札がある。13の内訳は、A(エース)、2、3、4、5、6、7、8、9、10、J(ジャック)、Q(クイーン)、K(キング)である。
ところが、うんすんカルタの場合、まず枚数は、各十五枚ずつ五段に並べられているので、総数75枚である。

ウンスンかるた
    ウン    スン   ソウタ    1       2       3       4        5       6       7       8        9     ロバイ レイ カバ
(一段:コツ聖杯:二段:パオ棍棒、三段:オウル貨幣、四段:イス剣、五段:グル巴紋)
図1.九州国立博物館所蔵のウンスンカルタ    出典:九州国立博物館「アーカイブ」No.7

 一段目の絵柄(スート)は、コップ(酒杯)、二段目はイス(剣)、三段目はオウル(貨幣)、四段目はハウ(棍棒)、五段目はクル(巴紋)と呼ばれている。さらに、図の各段の左端。第1列目の5枚を「ウン」と言う。このウンの中には、最上段が布袋さん、二段目が福禄寿、三段目が鯛を持った恵比寿さん、米俵に乗っている大国さん、赤い布をまとったダルマさん、といった具合である。二列目の五枚の絵柄が「スン」である。スンは五枚とも黒い頭巾のような冠をかぶった中国風の容姿人である。三列目は「ソウタ」と呼ばれ、西洋風の服装をした女性らしき人物が描かれている。この図の四列から数札で、1~9まで絵の数で示してある。

 この図で右端は「カバ」といい、馬に乗った騎士の絵である。右端から二列目は「レイ」といい、従者である。右から三列目が「ロバイ」で、龍が描かれている。

カルタ カルタ
図2.ウンスンかるた遊びの風景    写真:「ウンスンカルタ保存会」HP

 図2は、ウンスンかるた遊びの風景である。30枚の絵札と45枚の数札には強弱があり、遊ぶときには札を出し合い、強い札を提示した人が全札を取得できる。数札の場合、数が多い方が強いとは限らず、なかなかややこしい。長物(棍棒や剣など棒状のもの:イスやパオ)は、数の多い方が強いが、丸物(円状の絵柄のもの:コツ・オウル・グル)は、数の少ない方が強い。

 絵札の場合は、強い順番は「スン」「ウン」「ソウタ」「ロバイ」「レイ」「カバ」である。ところが、切り札とか幾つもの細則があり、楽しく遊べるようになるまでには「切り札」の使い方や幾つかの細則を習得する必要がある。人吉市の鍛冶屋町に「ウンスンカルタの家」があり、そこに行けば、教わることができ、カード遊びが体験できる。

 さて、このウンスンかるたが、ポルトガルから辺境の人吉までのどのようにして伝搬したのかである。ポルトガルという国は、日本の真西、ユーラシア大陸の最西端のイベリア半島にある。15世紀半ばから17世紀にかけての大航海時代で、ポルトガル商人が1543年、種子島へ漂着し、鉄砲が伝来したとされる。大航海時代は早い者勝ちの時代で、発見した土地で略奪や搾取し植民地化していた。ポルトガルもアジア地域へ植民地および貿易相手国を求め、アジアでは中国のマカオを拠点に貿易活動をしていた。日本への寄港地は鹿児島県の坊津(ぼうのつ)であったとされているが、牛深の港も当時の主要な泊りの港であった。この坊津という港は、鹿児島県の東シナ海に突き出た薩摩半島の北側にある。

 ウンスンかるたの人吉への伝来については、
  ① ポルトガルの船員たちが伝えた、
  ② 京都大納言の娘が相良藩に嫁いだ時に伝わった、
  ③ 備前の国池田池から相良家にいった長寛公が伝えた、などの諸説がある。
② や ③ の説は、なぜ人吉地方に伝わったかについては好都合であるが、筆者は、ポルトガルの船員たちが伝えたものではないかと考える。なぜかといえば、南九州には南蛮貿易船の寄港地が近隣にあり、船員や港で働く人夫(にんぷ)との交流があった筈だからである。早い話、船員が伝えたとされる「牛深ハイヤ節」である。歌詞の一番はこんな文句である。

♬  ハイヤエー  ハイヤ  ハイヤで今朝出した船はエー
何処の港に サーマ 入れたやらエー
(ハ ヨイサーヨ イサー)
エーッサ 牛深三度行きゃ 三度裸 アヨイショ
鍋釜売っても 酒盛りゃして来い 戻りゃ本渡瀬戸 徒歩渡り
ハ ヨイサー ヨイサー (ハ ヨイサーヨ イサー)
サあサヨイヨイ (サアサヨイヨイ)
 ♬

 「牛深ハイヤ節」は熊本県天草市牛深地方に江戸時代から伝わる「元祖ハイヤ節」であり、全国にあるハイヤ系民謡のルーツと言われている。南国奄美地方から伝わった熱狂的な「六調」のリズムを基調としている点は「球磨の六調子」と同じである。中でも、奄美民謡島唄「六調」や徳之島民謡「六調」は、ハイヤ節や阿波踊りの調子によく似ている。これらのことから、ウンスンかるたも民謡と一緒に奄美や坊津の港、または牛深の港を経由して船員の娯楽として持ち込まれたものであろう。

 「球磨の六調子」の歌詞は、季節は夏、田植えが済んでサナボリの頃、庄屋の五郎八や猫八どん、それに文蔵爺が麻の袴をはいて人吉の城下を見物に来た。いでたちは麻の袴をはき、ゴボウやヤマイモをワラ筒に入れて背負い、犬に吠えられ噛まれそうになりながら、あちこちぶらぶら、土産は竹鉢に入った梅干しやラッキョ、というユーモラスな道中記みたいなものであるが、踊りの衣装は図3に示すように、その片鱗もない出で立ちである。KUMAKOI六調子は若者向けのダンスであるから仕方ないとしても、正調「球磨の六調子」だけは歌詞に沿った衣装であってほしいと願う。

♬ 球磨で名所は 青井さんの御門 (前は前は) 前は蓮池 桜馬場 ヨイヤサァ
桜馬場から 薩摩瀬見れば 殿の御殿に 鶴が舞う ヨイヤサァ
田舎庄屋どんの 城下見物見やれ

麻の袴を 後ろ低う 前高う ひっつり ひっぱり ひっからげて
ごんぼづと(牛蒡筒)やら やまいもづと(山芋筒)やら 担(いな)わせて かるわせて
相良城下を あっちゃ びっくり こっちゃ びっくり
びっくり しゃっくり しゃじゃめく所を

あらま笑止(しょうし)や 虎毛の犬が
庄屋どん うち噛もちゅうて 吠えまわる ヨイヤサァ

人がいいいます こなた(私)のことを 梅や桜を とりどりに ヨイヤサァ
球磨の六調子や 六様にゃござる 人が十人いりゃ 十様ござる ヨイヤサァ
木上の五郎八どん 多良木の文蔵爺 湯前の猫八どん
ほっつり ほっつり ほっつり のぼらんせ
土産 竹ん鉢 梅干 らっきょ
こうら 酸いさ 酸いさ 酸いさ
  ♬

六調子-2 六調子-2 六調子-3
球磨の六調子 六調子音頭 KUMAKOI六調子
おてもやん像除幕式 あさぎり町KUMAKOI祭り
図3.球磨の六調子踊り

 「港までは乗組員が伝えたとしても、問題は、へき地の人吉地方に、どうして伝わったかである。筆者は中学を卒業する頃まで海を見たことがなかった。八代あたりで初めて海を見た時の感動はいまでも覚えている。山深い盆地に住む者にとって、広々とした海を見ることや港で働くことは、昔から球磨人の憧れであったと思われる。

 人吉球磨地方へ、これらの文化や習俗が伝来した最も確実性の高い社会情勢は、江戸時代末期から始まった天草(下島南西地区)からの球磨地方への移民政策であろう。天草は球磨地方に比べて人口が多く、耕作地は少なかった。そこで牛深地区の名望家(名家・資産家)に出資させ、球磨地方への移住者をつのり、応募者に資金援助をして、小作人として送り出し、いわば球磨盆地を天草の植民地としたのである。明治初めの天草地方から球磨郡への移住者の多くが牛深地区の出身者である。牛深地区は、球磨地方からは海を隔て疎遠の地のように思えるが、古くからこのような形での交流があったとすれば、牛深地区での文化や習俗が球磨地方へ伝来したことは容易に想定できる。

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